悪いことをしたのに、あやまらない。果せないのに、安請け合い。うわべだけの口先だけ、そのときだけの「はい」と「ごめん」。子育てあるあるですよね。
正しすぎることは、間違っていることと同じだ
自分に厳しくあればあるほど、子供を攻撃することにつながります。
人は同じようにみえてまったく違う生き物です。正しいことが、自分と相手にとって正解とは限りません。
親子関係を大切にしたいなら、正義は2の次にしたほうがいいです。
たとえばコロナの自粛警察、そういう人の気持ちは絶対正義のミカタです。感染しないために、マスクをし外出も控え、3密に過敏です。やるべきことはやっている、と思っています。こうなると、気軽に旅行し、マスクをしない人が気にいりません。
でも、外食するときはほとんど喋らなかったり、マスクも適切にしたり、医学論文や他の病気と比較した統計を理解し考慮して、主体的に考えてコロナと向き合っている人もいたりします。
これと同じように、親としてやっていることはやってるだけに、子供の言い分がおかしいと感じたり、癇に障ると気に入りません。
そこに子供側の考え方もあるのかもしれないのです。
親の基準の満足点を目指すのではなく「まずまずいい方向」である場合は、多少不満でも、大目に見守ることも大切だと思います。自分もよく考えます「妻の実家のお母さんなら怒らないだろうな」と。
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内容なんて、ないようなもの
記憶はかなり曖昧なものです。というのも日常生活の中の出来事を、証拠として記録している人はまず、ほぼいないからです。
子供の心にいつまでも残るのは「記憶ではなくて、印象」です。
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印象は、曖昧であっても選択に大きな影響を及ぼします。
とくに親子関係で、自分が子供のころ親にどう接さられていたかで、
生涯の親子関係はほぼ決定されます。
よかったか、いやだったか、この2つです。
躾された内容なんて、覚えていません。
実際、先日しっかり叱ったことがありましたが、翌朝には叱った僕でさえ、
その内容を忘れかけていました。子供にも聞きましたが、内容はみごとに
忘れてました。これが子供が親に対する好きか嫌いかを決めます。
自分の正義、基準のために、それを満足させたい欲求はわかります。
ただ、その内容、指摘したい内容だけを簡潔に伝えることもできます。
忘れること前提なので、何度も伝える作業だけはあると覚悟はいります。
僕自身、また多くの農家出身の長男の意見だと勝手に思っていますが、
僕にとって農業は、大変で、楽しそうでなく、家族の感情的な犠牲のうえに
なりたっていると印象です。だから大嫌いです。
どんなに理想を語られようと、その意義や必要性を語られようと、
印象がわるければ、それらは嫌いになります。これは損失でしょうね。
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『大切なのは性格、礼儀ではなく動機と価値観』
「だめ、汚い、危ない、遅い」親の基準からみれば、子供の発言、行動は
満足できるわけがありません。記憶も曖昧にしか残らないのであれば、
優先して躾けるべきは「子供の動機と価値観」だと思います。
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相手のことを考えられるけど、ぶっきらぼうな人がいます。
礼儀をわきまえられないけど、とても誠実な人がいます。
こういう人にはかならず理解者がいて支えられます。
その反面、
自分の利益のことばかりだけど、感じのいい清潔感のある人がいます。
人を見下してるけど、身なりや礼儀はばっちりな人がいます。
愛想のよい利己主義者のことを、別名ペテン師といいます。
そこで、自分の子供にどちらであってほしいですか?
パッと見て、社会的な評判がよさそうなのは後者でしょう。
しかし、おそらく人間関係は最悪でしょうね。仕事でも家庭でもです。
いつも必ず犠牲者がでます。きっと親にも無意識で毒牙にかけます。
もちろん、ある程度は性格も礼儀も大切だけれど、
それ以上に「他人のことを自分と同じように大切にできるのか」
「他人の視点でも考えることができるのか」ということのほうが、
「だめ、汚い、危ない、遅い」よりも、よほど意味があると思います。
よい言葉があります。
「自分にとっての正しさは、人に押し付けるものではなく、
自分が気分がいいからするくらいでいいのではないでしょうか?」
ほんといい言葉だと思いました。
気分がいいからするぐらいでちょうどいい。「子供には求めない」
それでもいいじゃないんでしょうか。